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HANABI!! HANABI!!


第11回全国花火コンクール
昭和33年7月26日
競技玉の種類
五寸早打ち、七玉一組

優勝 一名 優勝旗 金弐万円
壱等 二名 賞状  金壱万五千円
弐等 二名 賞状  金壱万円
佳作 十名 賞状  金五千円
審査員
委員長 東大教授     山本 祐徳
東大火薬学教室      平田理久三
通産省技官         浜野 元継
国警科学捜査研究所   岩井 三郎
花火研究家         浜野 一雄
日本観光飛行協会理事 藤野勝太郎
花火研究家         田山音次郎
芸術院会員         朝倉 文夫
同               吉田五十八
同               岩田 藤七
日本画家          伊東 深水
画家              木村 荘八
作家              永井 龍男
評論家            安藤 鶴男

煙火天狗
明治32年、長野で初めて開催された恵比寿講大煙火で打ち上げたアマチュアの花火師で当時は専業のものはなく誰でも好きなものが製造して打ち上げることができた。 三戸部、金箱、西沢、石黒、轟、松浦、安茂里、山勝、六川、更級流などから参加した。

雨宮県尋常小学校
明治33年10月14日の校舎の落成式に二尺玉を三発打ち上げた。 重さはそれぞれ十二貫、十四貫、十八貫の三個で周辺では評判になり上田、長野、西山中など1から群衆が押しかけた。 釣り星五個が風に揺られ大浦山へ流れた。 大筒の破裂を恐れ今回は打ち上げ火薬を五十六匁に少なくした。


轟音玉
動物を追い払うために使用される花火を轟音玉(発音玉)と呼んでいる。
以前からあるもので漁師が網を引き上げる時にトドなどか中にいる魚を食べようと引き裂くので防ぐために使用されてきた動物駆逐用煙火である。火を付けて海に投げ込むと約10秒ほどしてから大きな音とともに爆発する。中身は花火とより爆薬である。近年、陸上でもサルやイノシシなどの作物被害が多く花火が使われるようである。記事でよく目にするのはロケット花火を連結して発射し音で驚かせて追い払っているようだが、これは目的外使用のため火薬取締法に引っかかるおそれがあるそして 「 にわか 」 花火師が横行するのである。

一刻千金の花
大正5年(1916)11月20日の恵比寿講大煙火大会で初めて二尺玉が三発も打ち上げられ、一発の失敗もなく成功し25日付けの信濃毎日新聞に一刻千金の花と題して写真が掲載された。

高野一道
明治33年(1900)の第二回恵比寿講大煙火に一尺八寸五分の千輪を持ち込み午後9時に打ち上げた医師で、翌年の明治34年(1901)にも尺八寸玉を持ち込んだ。

秋葉神社 ( 長野 )
江戸の末期、長野で一番の賑わいをみせた権堂村の水茶屋の客寄せにお祭りで花火を打ち上げた神社で明治5年(1872)に、人身売買停止令で水茶屋が廃業、花火の打ち上げもなくなった。

銅像
明治34年10月13日、生萱区の埴科県神社前に高野一道の前進像が立てられた。一に仁術、二に二尺玉の元祖として門弟らの浄財金を集めて顕彰されたず、昭和18年夏の大東亜戦争のさいに金属回収により供出され現在は台石のみが残っている。


高土堤
長野えびす講煙火大会の当初の打ち上げ場で、大正5年11月20日には十数か所の青白ダンダラ幕の陣屋が張られ、 六寸五寸の鉄筒や八寸の木筒が何十本となく並べられ、 二尺玉を打ち上げる大筒は青竹のタガで包まれた八尺余りの巨体を土中に三尺も埋まって立っている。 筒の周囲には櫓ができて神々しい七五三で飾られ、 筒の根本は新しい俵に清め砂をつめて清めてある。 ( 大正5年11月21日付け信毎 )

藤沢由三郎
長野市大門町にあるふじきそば屋の主人で上田のえびす講が煙火の呼び込みで大売出しをしているのをヒントに「長野市大煙火会」を設立し明治32年から長野えびす講煙火大会(恵比寿講大煙火)を開催した発起人である。他に五明館主人・中沢四郎三郎、青沼喜八、中沢愛次郎、小宮政右衛門、花岡兵三、佐々木伊八、和田大吉、山崎萬吉ら。

生萱村(いきがやむら)
長野県鏡台山麓にあった村で現在の千曲市になる。長野えびす講の二尺玉の発祥地で佐久間像山が大砲を鋳造し、試射をした場所で蘭法医学を学んでいた当時19才の高野一道ら地元のか若者らが火薬に対する異常な興味を抱き、技術を学び、二尺玉を作ることになる。隣村の菩提寺、禅透院境内の松の巨木を住職から譲り受け、長さ一丈、底の直径五尺、筒口の内径二尺の木筒に竹のたがを隙間なくかけて半年がかりで打ち上げ筒を製造した。そして明治24年の秋祭りに尺八寸の大玉を二個作り生萱村の田んぼで打ち上げたが筒の中ほどが破裂して失敗に終わった。