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HANABI!! HANABI!!


伝統花火
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伝統花火とは日本に古くから伝えられている花火 (和火) です。花火は元々誰もが自由に作ることができました。そして様々な花火を製造して地域の鎮守様へ五穀豊穣や疫病退散などを願い奉納するようになりました。このような花火は現在でも約100ヶ所近く見られ多くが 「和火」 (わび) と呼ばれるものです。伝統花火は大きくわけると四つに分類されます。竹筒花火・龍勢 (流星) 花火・綱火・仕掛けです。これらはある程度の地域性があり、また製造方法や火薬の配合なども地域ごとの秘伝であり特徴があります。伝統花火は日本だけにとどまらず海外にも多く見受けられます。台湾の台南県塩水には 「蜂炮」 という祭りがあります。これは疫病退散を目的として行われ山車の各面に日本でいう玩具のロケット花火が何千本と据え付けられ町を練り歩きながら火をつけます。花火は四方八方に飛び出し、町を歩く人は花火が当たっても怪我をしないように厚着の服装を施し頭部にはヘルメットを被り歩きます。このような伝統花火はメキシコ・イタリア・スペインタイ・カンボジア・中国などでも花火に違いはあれ様々な目的で祭りで奉納されています。


尼崎藩
大坂の西側を守ることになった尼崎藩は砲術に力を注ぎ三河の本場から荻野流を取り入れる。そして安永10年 (1781) には武庫河原にて砲術を上覧花火も打ち上げ、近隣の西新田村や小松村には14.5万もの群集が押しかけて大騒ぎになった。

尼崎藩の寛政元年の炮術番附 
寛政元年の尼崎藩の炮術番附から花火も打ち上げられたことが読み取れます。ここに玉名と大きさと製作者を記す。
昼之合図
煙柳     五寸    我孫子喜右衛門
白竜     五寸    深津新五右衛門
赤竜     五寸    小嶋金兵衛
河虹     五寸    高宮清右衛門
集鳥     七寸    関 藤九郎
落葉     七寸    同 人
黒雲     一尺    同 人
時雨     一尺    奥山儀大夫
夜之合図
大綾     五寸    深津新五右衛門
星烈     一尺    奥山儀大夫
往来     一尺    同 人   など。


徳川幕府時代に出された
花火に対しての御触書 
花火がブームになるにつれて花火が原因となる火災が増え街中で花火をしてはいけないなど再三にわたり御触書がでる。特に天保13年の5月は花火業、鍵屋・玉屋に対して直接のお触れが発せられている。内容は年々きびしく取り締まられている。

慶安元年6月 (1648 ) 慶安05年   (1652 )
寛文03年6月 (1663 ) 寛文05年6月 (1665 )
寛文10年7月 (1670 ) 延宝07年6月 (1679 )
延宝08年7月 (1680 ) 元禄09年8月 (1696 )
元禄11年6月 (1698 ) 宝永元年7月 (1704 )
宝永02年6月 (1705 ) 享保05年7月 (1720 )
享保17年6月 (1732 ) 元文03年7月 (1738 )
寛保元年7月 (1741 ) 延享元年7月 (1744 )
寛延 3年7月 (1750 )  宝暦2年7月  (1752 )
天保11年5月 (1840 ) 天保13年5月 (1842 )
天保13年7月 (1842 ) 弘化元年7月 (1844 )
弘化04年8月 (1847 ) 嘉永05年5月 (1852 )

流派
火薬を扱う者は江戸時代、各藩に砲術師として使えていました。そして地域ごとに名人と呼ばれるものがおり流派が生まれました。その流派は太平の世になると煙火の流派に変わり現代まで受け継がれてきたのです。稲留流、荻野流、稲穂流、一光流、武田流、仙賀流、最明流、熊野流、川瀬流、良光流、光芒流、津田流、専海流、宮家に仕えた花王流などがあります。

享和4年(1804)に浅草川で揚げられた花火の番付

一 番 流  星 柳 火 二 番
打出し 群光星 三 番
流  星 武蔵野
四 番
打出し 粟散星 五 番 綱火移し 金 傘 六 番 流  星
銀河星
七 番 打出し
粟散星
八 番

子持乱火 九 番
流  星
村雨星
拾 番 打出し
乱 火 拾一番
流  星
庭 月 拾二番
打 揚 光雷鳴
拾三番
流  星
赤 熊 拾四番
打出し
星下り 拾五番
流  星
千 筋
拾六番

数玉火 拾七番
流  星
柳 火
拾八番
打出し
孔雀尾
拾九番 流  星 星 狂 廿 番 からくり 十二燈明替桃灯 廿一番 流  星 三 光
廿二番 打出し 赤 熊 廿三番 流  星 玉 簾 廿四番 打出し 花獅子
廿五番 流  星 武蔵野 廿六番 打出し 群光星 廿七番 流  星 星替り