NEWBAR.jpg

HANABI!! HANABI!!


パリ
1699年8月13日、フランソワ・ジラルドンによって作られたルイ14世の除幕式はルイ大王広場で行なわれた。パリ市は除幕式を行なうためにセーヌ川岸に寺院を造り栄光への道のりの困難さを示すためにヘラクレスやアレクサンドロス、ペルセウスや花火の絵も描かれた。

フィリップスブルク
1688年、ローマのフランス大使がフィリップスブルクの要塞攻略を祝って花火を上げた。これはルイ14世の功績を海外にも示すためである。

トスカーナ大公
初代トスカーナ大公コジモ・デ・メディチはフィレンツェにおいて1565年、息子の花嫁を歓迎する祭典を催した。街には凱旋門が建てられ模擬攻囲戦や花火が行なわれた。

ヴェルサイユでの思想
当時は構成を顕にするファサードより、それを覆い隠す装飾過多のファサードを選ばせた。これは、この世には確かなものは何もないという思想であり、不変のものは流れて消滅し、花火は城の破風に火をつけるなど、相反するものの共存を可能にしたものである。

ルイ十五世
ルイ15世は宴において招待客と一般人の差別なく、だれにも観賞できる花火を習慣化して王家の評判を保った。


ルイ・フェルディナン
ルイ15世は元ポーランド国王スタニスワフ・レシチニスキの娘、マリー・レクザンスカとの間に1729年9月4日に生まれた長男、ルイ・フェルディナンの誕生を祝ってヴェルサイユ宮殿において花火を打ち上げたが予算を超過したためフリュリ枢機卿の小言を頂戴してしまった。

ルイ十六世の結婚
1770年5月16日、将来の16世になるフランス王太子ルイ・オーギュストと神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア大公マリア・テレジアの娘、マリー・アントワネットの挙式がヴェルサイユ宮殿で執り行われた。当日は天候にも恵まれ宮廷は輝きを蘇えらせた。夕方から烈しい雷雨に見舞われ花火の打ち上げは中止になった。しかし祝祭は続き翌日には、これまでにないほどの規模の花火が上げられた。二人は国王といっしょに鏡の間から観覧した。

ベンガル花火
1661年8月17日、ヴォー=ル=ヴィコント城でフーケが使用した花火で炎色以外の色のついた花火である。

ナポリ王の娘・エレオノーラ
1473年6月22日、ナポリ王の娘・エレオノーラはフェラーラ公エルコーレとの婚礼に向かう途中フィレンツェに立ち寄った。ロマーナ門をくぐり抜け、ポンテ・ヴェッキオを渡り市庁舎へ来ると割れんばかりの拍手で迎え入れられた。翌日には花火が打ち上げられ、仮装行列など様々な催しも行なわれた。


教皇レオーネ
1513年3月11日、ローマでは教皇ユリウス二世の死去にともない教皇選出会議が開かれ投票が行なわれた。選ばれたのはメディチ家出身のジョヴァンニ37歳であった。メディチ派は熱狂して、祝典を開き花火を打ち上げ鐘を鳴らし続け祝砲を撃った。

フランチェスコ一世
コジモ1世の息子フランチェスコは1583年フィレンツェの優位を維持する目的でクルスカ学会を設立。彼は化学や錬金術の研究に没頭してたせれもが認めるエキスパートになっていた。そして花火の大量生産を可能にする独創的な工法を発展させた。

シュノンソー城
「 月の女神ダイアナ 」 ともあだ名される16世紀の絶世の美女ディアヌ・ドポワチェからアンリ二世が亡くなった後、奪い取ったシュノンソー城は王母になったカトリーヌ・ド・メディチがすっかり気に入り、花火大会をはじめ宴会などをたびたび催した。

騎乗の花火師
エルメス創業150周年の1987年1月24日、パリ市民とともに祝うためにセーヌ川にて 「 花火の夕べ 」 を企画した。セーヌ川に浮かんだ巨大なパビリオンからは花火があがり観客の目を楽しませた。このパビリオンに配されていたのが騎乗の花火師という像である。こちらは現在では、パリ、NY、ソウルそして銀座のメゾンエルメスにのみ設置されている。